
オーストリアを代表するピアニスト、アルフレート・ブレンデルが6月17日、94歳で亡くなった。1931年、チェコ、モラヴィアのヴィーゼンベルク(ロウチュナー・ナス・デルノウ)に生まれ、クロアチア、ザグレブで本格的なピアノのレッスンを受け始め、グラーツ音楽院でルドヴィカ・フォン・カーン、アルトゥール・ミクルに師事、ヴィーン音楽院ではパウル・バウムガルトナー、エドゥアルド・シュトイヤーマンに師事、1949年、ブソーニ国際コンクールで第4位に入賞して、注目を集めた。エドウィン・フィッシャーのマスタークラスでも研鑽を積んだ。
1971年に初来日、2001年まで頻繁に来日、日本の音楽ファンたちなどの人気も高かった。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、リストを中心としたプロクラムで多くのファンたちを魅了した。当初の招聘先は梶本音楽事務所、2001年の招聘先は高柳音楽事務所だった。
ブレンデルがベートーヴェン、1回目のピアノソナタ全集を出したのがアメリカ、ヴォックスだった。この時は、日本では廉価盤として、いくつかが出た。1970年代以降、フィリップス(デッカに合併)専属となった際のベートーヴェン、ピアノソナタ全集、協奏曲全集が注目されるようになった。また、ハイドン、シューベルトの作品録音にも意欲を示し、底本と呼べる演奏を遺した。
ただ、ハイドンはローラント・バティック、ルドルフ・ブッフビンターによる全曲録音が出た。シューベルトはヴァルター・クリーン、ミヒャエル・エンドレスなどによるソナタなどの全集版が出た。その意味で、ブレンデルがハイドン、シューベルトに目をつけたことは大きい。
ブレンデルのベートーヴェン演奏は、アルトゥール・シュナーベルに始まるオーストリアの伝統に列なっている。パウル・バドゥラ=スコダ、フリードリッヒ・グルタ、ルドルフ・ブッフビンダーと連なっている。ドイツの伝統はヴィルヘルム・バックハウス、ヴィルヘルム・ケンプからディーター・ツェヒリン、ペーター・レーゼル、ゲルハルト・オピッツ、ミヒャエル・コルシュティクへと続く。ベートーヴェン演奏の系譜はドイツ、オーストリアに分かれている。ブレンデルが3度にわたるベートーヴェン全集を出したことは意義の大きなことだろう。
ただ、ブレンデルの来日が2001年て途絶えたことには、2000年代から始まった日本の音楽マネージメント業界の世代交代が大きく影響した。老舗の大手、神原・高柳両音楽事務所の廃業、コンサート・エージェンシー・ムジカをはじめとする大手・中堅マネージメントの倒産があった。大手ではパシフィック・コンサート・マネジメント、ヒラサ・オフィスなどが設立、21世紀日本の音楽マネージメント大手として活動している。音楽マネージメントのどこかがブレンデル来日を実現していたら、どれだけよかっただろう。ブレンデルにとって大きな致命傷になったことは残念である。
イギリス、ロンドンを本拠として、本格的な音楽活動を行ったことは、ブレンデルを世界的ピアニストに押し上げただけではなく、レコーディングでも注目されるようになった。日本の音楽マネージメントの世代交代で来日公演がなくなったことは惜しまれる。パシフィック・コンサート・マネージメントなどが来日公演を手掛けたら、ブレンデルの話題が増えたはずだと感ずる。
オーストリアの伝統を伝えたピアニストがまた1人、この世を去ったこと。天国での平安を祈りたい。
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