邦楽から洋楽へ

 久野の母、うたは芸事が好きだったため、久野は京都の生田流の名人、古川検校のもとで琴・三味線を学んだ。尋常小学校を終え、古川検校のもとで邦楽の修業に励んだ。これは兼常清佐の妻、篤子も認めている。篤子は次のように記している。

「私どもは曾て一度も久野先生の筝も三味線も聞いたことはありませんが、若しやる気になれば筝も三味線も、唄もまだ忘れずにお出来になったことと思います。芝居も恐らく若い時にはごらんになったことでありましょう。何かの話の中で弁慶上使の段の文言が出たことがありました。」

この証言は貴重である。歌舞伎の場面、科白も出て来る。筝、三味線、唄も出来ただろうという指摘は見逃せない。

 腹違いの兄、弥太郎は京都の第3高等学校に通い、1901年、東京大学に進む際、久子に東京音楽学校受験を進め、兄と共に上京することとなる。弥太郎はこれからは洋楽の時代が来ることを睨み、久子に音楽学校受験を進めた。この読みが見事に当たり、日本のベートーヴェン受容史の礎となった。