久野久子の幼少期と足のけが

 久野は幼少期、近くの平野神社の石段から落ちて、足に重傷を負い、生涯にわたり不自由となった。ここで、中村紘子は「英雄クノ・ヒサコ」を底本としているから、久子と兄、弥太郎は実母の子ではなかったとしている。久子の実母はうたであり、弥太郎はふさの子であった。弥太郎とは異母兄弟だった。兼常清佐はやたら中傷誹謗した内容で、実家は高利貸しだったとしている。これが中村に引き継がれ、

「日中から雨戸を立ててどことなく人目をはばかる風情で、用心深くひっそりと暮らしていた。」

と記している。両親が亡くなると久野家は離散、京都の叔父の許へ引き取られたという。

 吉田光邦は、継母との折り合いが悪かったためではないかと推測している。久野家が没落したとは記していない。久野家は大津の資産家として名を残していたからである。姉あい子が入り婿、久野桂之助を迎え、久野家が存続している。あい子と桂之助との間に長女せい、次女綾子、長男弥一郎が産まれている。

 久野の師、幸田延は父弥助の話をよくしていたという。また、久野の墓石を作ることとなった朝倉文夫が東海道線の3等車で2人の音楽学校女子学生と乗り合わせた際、その一人が久子だった。その時の思い出が、久野の死後、東京都文京区の伝通院の久野の墓石づくりにつながっていく。

 母うたは芸事が好きだった上、久子の足の障害を考え、京都市上京区西方寺町両替町竹屋町の叔父、服部弥太郎のもと、小学校に通いながら古川検校のもとで修業に励んだ。兼常の妻、篤子も認めている。篤子は、久野が筝曲を弾くことができた可能性にも触れている。

 1901(明治34)年、弥太郎は東京大学へ進学。これからは洋楽の時代とみた弥太郎は、久子に東京音楽学校への進学を進めることとなった。