久野久子の生い立ち

 久野久子の生年について1884年説、1886年説があった。現存する久野家の戸籍によると、1885年だったことがはっきりした。1884年説が出た背景には、1925年4月21日、ヴィーンで自殺した際、死亡証明書は1884年生まれと記していたことにある。1886年説は数え年での年齢から出たようである。

 仮に、吉田光邦が「挫折のピアニスト 久野久子」を執筆する際、久野の戸籍調査を行っていれば、1885年と確定していた。しかし、東京芸術大学での職員履歴閲覧だけだった。吉田が久野に関する研究論文を執筆した際、戸籍調査を怠ったことは致命的だった。

 久野家は滋賀県大津市では資産家で、父、久野弥助は、久子の姉あい子には入り婿として、久野桂之助を迎え、大津の久野の家系を残した。2人の母はうた(旧姓吉川)で、弥助は跡取りの男子に恵まれなかったせいか、一旦、うたと離婚、ふさ(旧姓服部)を迎えた。ふさの連れ子だった弥太郎を久野家の跡取りとしている。ふさがなくなると、うたと復縁している。弥太郎は、1901年、東京大学法学部に進んでいる。こうした事情も手伝い、あい子に婿をとって、大津の久野家を残している。

 父弥助は1911年、この世を去っている。それでも、久野家は資産家として残った。中村紘子は高利貸しの家で、両親が亡くなって久野家が没落したなどと記している。兼常「英雄クノ・ヒサコ」は「高利貸しの家」と記した。これは、久野に対する兼常の妬みから生じたもので、中村はよく調べもせず、うのみにしたことが大きな誤りだった。